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箸墓古墳2023年05月22日 23:24

箸墓古墳

箸墓古墳(はしはかこふん)は奈良県桜井市に所在する全長272メートルの前方後円墳である。卑弥呼の墓の有力候補とされる。宮内庁が陵墓として管理しており、原則として立ち入ることができない。

概要

奈良県の北部、奈良盆地の南東部に位置しており、三輪山から直線距離で2.3kmである。平成9年に桜井市教育委員会が後円部に隣接する土地を調査した際、周濠と大規模な堤を確認している。後円部は径約154メートル、高さ約30メートルである。3世紀代最古期の巨大前方後円墳である。後円部は5段、前方部は4段とされている。この規模の古墳を造営するためには当時は人力のみであったから、10年から20年程度は要したと考えられている。存命中から工事を開始したとしても、箸墓古墳の造営年代と卑弥呼の没年がかなり近いことになる。

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 築成 前方部:4段、後円部:5段
  • 墳長 280m
  • 後円部 径157m 高29以上
  • 前方部 幅125m 長120m 高12m
  • 【周濠】あり(前方部北側に一部あり、幅10.5m・深1.9m以上)。
  • 【その他】前方部バチ形。

築造年代

1990年代の三角縁神獣鏡の研究から箸墓古墳の築造年代は3世紀中頃とされている(参考文献1)。また箸墓古墳の周濠状遺構から出土した布留0式土器の付着物を炭素14年代法で分析した結果でも、較正年代は西暦240年から260年とされている(参考文献2)。 これらの科学的調査から日本の考古学者の多くは卑弥呼の墓の有力候補と考えている<ref>邪馬台国九州説を唱える研究者らは「後の時代の築造」として3世紀中頃の築造説を受け入れていない。文献学者には邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説とがいるが、考古学者は邪馬台国畿内説でまとまっている。 墳形は「前方部バチ形」であり、3世紀頃とは整合的である。

なお宮内庁は倭迹迹日百襲姫命の墓に指定している。しかし倭迹迹日百襲姫命は実在性が疑われている人物である。

卑弥呼の墓との整合性

卑弥呼が亡くなったのは西暦248年(または247年)と考えられているが、箸墓古墳の築造年代の推定と矛盾しない。また魏志倭人伝記載の「径100歩の墓」とは、古代の歩は6尺であるから、径100歩は145メートルとなり、箸墓古墳の後円部の径と矛盾しない(注;ウィキペディア日本語版の「古墳の規模および様式が魏志倭人伝の記述と異なっている」との記述は不正確である)。しかし卑弥呼墓と断定するための根拠はいまだ不足しているといえる。

しかし、3世紀中ごろにおいて「径100歩の墓」に相当する古墳としては、箸墓古墳が最有力であるから、推定する理由はある。しかし反対意見もある。

出土品

2000年5月17日(水)、宮内庁の調査により土器や最古型の埴輪などの破片が3000点以上出土した。これらの遺物は、平成10年9月の台風7号の強風により、古墳の墳丘に植えられた木が倒たため、その整備事業の際に倒れた木の根元の土から採取されたものである。後円部で出土した土器に「特殊器台」という吉備地方の墳墓に見られる大型の土器が含まれていた。「特殊器台」は弥生時代後期に吉備地方で出現している。古墳時代になると、円筒埴輪に変化した。

また壺形埴輪が出土しており、宮内庁が保存している。周濠内で出土した土器は庄内式期から布留式期にかかる。

纒向遺跡で宮山型特殊器台の破片が石野博信により発掘された。周濠内出土土器は庄内式期から布留式期にかかる。纒向遺跡が箸墓古墳や邪馬台国に結びつく手がかりとなった。特殊器台は最大1メートル近くある円筒状の土器で、円と直線を組み合わせた文様「直弧文」は死者の魂を封じ込める意味がある。吉備系の土器の出土は初めてである。箸墓古墳で見つかった特殊器台の破片と纒向遺跡の土器は似ている。箸墓古墳の特殊器台も吉備の土が使われたと見られている(参考文献:SankeiBiz 2021年10月)。

外濠遺跡

考古学者は、箸墓古墳は日本列島における最初の大王墓と考える向きがある。墳丘の周囲をめぐる幅10メートル程度の周濠と、その外側に広がる大規模な外濠状遺構が存在し、幅は50メートル以上で、またその南端部分では人工的な盛り土が確認されている(参考文献3)。

周濠内の堆積土から木製の輪鐙(馬具)がみつかった。輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄されたと推定され、国内最古の馬具である可能性が高いと発表する。しかしこれは、3世紀中頃の古墳築造を否定するものではない。古墳と外濠とが同じ時代の築造とは限らないからである。実際3世紀ころは古墳に周濠を作ることは慣習化されていない。

木製輪鐙は2001年度(平成10年度)に行われた箸墓古墳後円部裾の調査で周濠の上層から出土している。復元すれば長さ23センチメートル程度のもので、孔の上部に鐙靼によって摩耗したと考えられる幅1センチメートル程度の摩耗痕が認められているので、実際に使用されていたものと考えられている。国内の木製輪鐙の出土は宮城県仙台市1点(5世紀代)、滋賀県長浜市1点(5世紀末~6世紀後半)、大阪府四條畷市2点(5世紀後半)の4点で、箸墓古墳で5例目となる。4世紀初の日本最古の鐙とされている。

冢とは

『三国志』魏志倭人伝に「其死 有棺無槨 封土作冢」「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩」と書かれる。この冢(ちょう)は日本語の感覚の「塚」と解釈するべきではない。中国語の「冢」は土を高く盛り上げた墓の意味である。

纒向古墳群

箸墓古墳付近で前方後円墳と判別できる古墳には、纒向石塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳、東田大塚古墳、ホケノ山古墳があり、これらは「纒向古墳群」と呼ばれる。ただし文化庁は箸墓古墳を「纒向古墳群」に入れていないようである(文化遺産オンライン)。纒向古墳群は史跡名勝天然記念物に指定されている。

明治時代の写真

1876年(明治9年)に撮影した写真と原板が宮内庁に保存されている。明治政府が奈良県に依頼し、官民合同の奈良博覧会社が撮影したものである。後円部頂上に円壇が写っている。それ以前の古墳に比べ、規模が3倍となっており、埋葬者の権力の大きさを表している。

衆議院での質問

2010年(平成22年)6月3日、第174回国会で吉井英勝議員(日本共産党所属)より「宮内庁に管理されている古墳の祭祀と調査に関する質問主意書」(質問番号:535)が出された。質疑には定説が定まらない歴史学の学説の見解も含まれており、回答のない事項も見られる。重要な回答について、まとめる。

箸墓古墳の築造年代

箸墓古墳の築造年代は、諸説あるが、最新のIntCal20較正曲線を使いAMS法によるC14年代として「1780± 30]を採用すると、なんと、西暦240から250年頃となり、卑弥呼の没年とかなり近くなる。(図参照)(較正曲線は参考文献9)

基本事項

  • 名称:箸墓古墳
  • 規模:墳丘長278m
  • 所在地:奈良県桜井市大字箸中
  • 交通:JR巻向駅 徒歩13分 (道路距離 948m)

文化遺産オンライン

纏向古墳群

参考文献

  1. 岸本直文「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」国立歴史民俗博物館研究報告 No185、pp.369-403
  2. 春成秀爾他(2011)「古墳出現期の炭素14年代測定」国立歴史民俗博物館研究報告163、pp.133-176
  3. 広報「わかざくら」桜井市,平成22年7月掲載
  4. 高島敦(2008)「古墳の周濠の意義」奈良大学大学院研究年報 (13号), pp.174-178
  5. 所蔵資料詳細/宮内庁
  6. 第174回国会 質問の一覧/衆議院
  7. 「卑弥呼の墓鮮明に/最古の古墳写真/宮内庁が保存」産経Biz,2014年5月19日
  8. 「THE古墳,箸墓と卑弥呼の都を結んだ「昼食帰りの大発見」,産経Biz,2021年10月13日
  9. 国立歴史民族学博物館「IntCal20較正曲線に、日本産樹木年輪のデータが採用されました

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